数万年の終焉







子供の頃、雑誌のグラビアで見たキリマンジャロの写真が、ずっと記憶の片隅に残っていた。野生動物とサバンナ独特の景色の遙か遠くに、頂上を白く雪に覆われたキリマンジャロが写っていた。たぶん、ケニア側から撮られたものだったと思う。赤道直下のアフリカに雪の降る山があることがとても不思議に思えて、何度もその写真を眺めた。

 キリマンジャロでの撮影の話が舞い込んできたのは、アラスカの空撮を終え、札幌に戻って、2週間がたった頃だった。しかも、出発まで3週間程度しかない。今回は、アラスカ大学の学術調査隊の記録カメラマンとしての同行。最近、体力の衰えを感じている自分に、七大陸最高峰の4番目の高さを誇る、キリマンジャロに登れるのだろうかと自問自答する。さらに、アラスカの撮影で足に怪我をして、手術をしたばかり。悩んでいても仕方が無いと、早速トレーニングを始め、僅かな期間で太股を二周りほど太くさせ、低酸素室トレーニングによって高度順応を行い、体調を整えた。通常、キリマンジャロのベースキャンプは、4700mのギボハットで、夜のうちからアタックを開始し、日の出をギルマンズポイントから眺め、体力があれば最標高のウフルピークを目指す。ウフルピークで数分間の撮影タイムののち、一気に3000m台まで降りて、高山病を避けるというのが、通常のスケジュールだ。

我々は、学術調査のため、5800mのクレーターポイントで10mの縦穴を掘らねばならず、その為にウフルピーク直下でのビバークを行う。エベレストのベースキャンプを超える標高はかなり厳しい環境となる。麓のサバンナでは、30度以上の気温も頂上ではマイナス15度程度と低く、万一強風となれば、体感気温は想像を絶する。
私は体を鍛えると共に、装備の検討に大幅な時間を割かねばならなくなった。様々な物を軽量化し、コンパクトに纏めるように検討するものの、亜熱帯から極寒までの装備を纏めるには無理がある。基本的に衣類は重ね着を前提とし、水筒をチタン製に変えたが、さほど軽量化にはならない。やはりカメラ機材だ。通常、海外遠征に持って行く機材は20kgを軽く越える。

これを、ウフルピークまで担いで登るには体力的に無理がある。散々悩んだ挙げ句、思い切って機材を全て新規に調達することにした。選択基準は、小さく軽い機材。レンズ交換が出来て、超広角から望遠までをカバーする。

最初はフォーサースを検討したが、どうせセンササイズが同じならばと、さらに軽いマイクロフォサースで纏めることにした。超広角は7mm〜14mm(35mm換算で14mmから28mm)と申し分無い。これに、標準ズームと望遠ズームの3本で、14mm〜400mm(35mm換算)までが使えることになり、一通りの撮影が出来る。予備分の本体と4本の交換レンズで、2.5kg。一応、職業カメラマンとして、この程度の機材で良いのだろうかという自問自答を繰り返しながらも、これしか選択の余地は無かったのだと、自らに言い聞かせて出発した。

アムステルダムで、アラスカ勢と合流。ここで、問題が発生。直前になって予定の発電機が装備から外されたとのこと。充電できることを想定していたので、2台の本体のバッテリ以外には、予備が2個。計4個のバッテリで、9日間を撮りきれるのかが心配である。一応、12V出力のソーラーパネルがあるということなので、車用の充電器を空港内のカメラショップで購入した。キリマンジャロ国際空港は、思ったよりも涼しく快適だったが、その分、キリマンジャロ山頂の気温が気になる。マイナス15度かそれ以下の低い気温の中で、バッテリは何枚撮影できるのだろか。購入したばかりで、使い込んでいない機材にあらためて不安を感じる。

翌日一日をかけて機材のチェックを行い、あっと言う間に登山開始となった。車で標高1500mまで行き、ガイド、ポーター達と合流。ガイド、ポーター全員で、「ジャンボ」を繰り返す歌と踊りで、陽気に我々を迎えてくれた。最初は亜熱帯の植物が緑豊かに茂る森林地帯の山道を登って行く。きつめの登りだが、まだ、体力もあり心地良く登って行ける。通常、キリマンジャロはマンダラルートと呼ばれるコースを登るケースが圧倒的に多い。

多分、日本人でキリマンジャロを登った人たちの殆どが、マンダラルートで登っている。(TV番組の「世界の果てまでイッテQ」のイモトもマンダラコース)我々のコースは、レモショールートと呼ばれ、マンダラコースに比べて圧倒的に距離が長いうえ、アップダウンが激しく、体力が必要とされる。変化に富んでいる分、眺めは良く被写体としての魅力は大きい。

2日目の後半には、背の高い樹木はなくなり、見晴らしが良くなってくる。3日目には、大きく植生が変わり、乾期だけにドライフラワーの花畑が一面に広がってくる。雨期に来れば、様々な花が咲き乱れているのだろう。4日目には植物臨界を越え、岩と砂だけの世界になり、気温も一気に低くなり、体力の消耗も進んでくる。ここに来てもう一つ心配ごとが増える。乾期で極度に乾燥しているため、埃が多い上に埃の粒が小さい。昨年、モンゴルで砂嵐に飲み込まれ、レンズの中まで細かい埃が入り込んでしまった。極力、撮影以外はソフトケースの中に入れるように心掛ける。

5日目には、コースは下りとなり、4000mを切ったところで、ジャイアント・セネシオを初めて目にした。ジャイアント・セネシオの異様な姿は、キリマンジャロの景色にふさわしい。ジャイアント・セネシオの下には、ドライフラワーとなった高山植物が咲き乱れ、花畑と奇妙なモニュメントが形成されていた。

6日目は、アップダウンの激しい道のりが体力を奪い、強い紫外線で皮膚はボロボロ、体が蝕まれていく感覚が辛い。標高も高くなり、数歩歩いては乱れた呼吸を整えなければ前に進めなくなる。登るだけでも大変な状況の中で、写真を撮り続けることは、登るペースが乱れ疲れが倍増する。時には最後尾から先頭までの1km程度の距離を走らなければならない。口から心臓が出るというのは、こういうことなのかとこの年になって初めて体感した。

7日目の夕方、極度の疲労を感じながら、やっとのことで標高5800mのクレーターポイントに到着した。目の前に広がる青空と、氷河のコントラストが美しい。数千万年単位で存在し続けたこの氷河も、温暖化の影響であと10年程度で全て溶けてしまい、跡形もなく消滅してしまう。貴重な眺めを記録しなければと、カメラを向けるものの、呼吸が荒く深いため視野が安定しない。いつものように息を止めてシャッターを切り続ければ、あっと言う間にその場に倒れてしまいそうだ。三脚を取り出し、呼吸を整えながら一歩一歩意志の力のみで氷河に近づき、パノラマ用の撮影を行った。振り返ると、ウフルピークに向けて、明日登る急斜面が私の前に立ちはだかっていた。やはり、5800mの標高はあらゆる生き物を寄せ付けない、厳しい場所である。

クレーターポイントまで登ることが出来ずに、脱落者が数名出て、ポーターと共に下山していった。さらに深夜、隣のテントに寝るスタッフが呼吸障害で引き付けを起こして大騒ぎになった。私自身も、ここ数日、全く睡眠がとれていない。眠れない分、横になり極力体力を温存するが、テントの中も勿論マイナスになり、吐いた息がたちどころに凍り、シュラフに薄氷が張る。

翌朝、撮影のため、一足先に一人だけウフルピークに向けて出発する。僅か標高差100mの斜面が途方もなく長く感じる。眼下には氷河と、さらに下には雲海が広がっている。美しいが、体力の限界を遙かに越えた肉体が悲鳴を上げている。急な斜面を登り終え、クレーター沿いに進むと、ウフルピークが視界に入ってきた。登りきった安堵感と達成感。これまでお世話になった現地スタッフのサインが入ったフラグを広げて、一足先に記念撮影を行った。30分ほど遅れて、調査隊の面々が登ってくるのを撮影し、ウフルピークを後にした。下山し始めると、腰、膝が痛み始めたが、これも軽くてコンパクトな機材のおかげで、なんとが下りることができた。

従来の機材を担いで登っていたら、頂上までたどり着かなかっただろうと思う。ポーターに機材を持ってもらう手も無い訳ではないが、それでは貴重なシャッターチャンスを逃してしまうし、疲労の蓄積に伴って極端に撮影枚数も減ってしまったと思う。カメラは常に手の中にあり、全ての交換レンズがすぐに取り出せることが大切だった。麓に近付くと、子供達が道端で登山者を待っている。登山者の持っているお菓子や食料を貰えることを期待しているのだと解り、私もリュックを下ろして、キャンディとビスケットを渡した。記念に一枚撮らせてもらう。

アフリカで人物を撮るのは難しい。

親しくなった場合は別だが、知らない人達にいきなりカメラを向けたら最後、「マネー・マネー」と強い口調で責め立てられ、大騒ぎになってしまうからだ。それでも粘り強く、挨拶を交わし、子供にはキャンディ、大人とは一緒にたばこを吸って片言の英語で会話をしてから、「撮らせて貰えるか?」と聞くと快くOKして貰えることも多い。しかし、笑顔は少ない。世界各国を撮り歩いてきたが、これほど笑顔の少ない国は初めてである。

無邪気に笑うのは、小さな子供だけで、十代も半ばになるとなかなか笑ってくれない。このあたりに住む人達の生活はかなり厳しい。特に南アフリカでは食べる物どころか清潔な水も手には入らないのが現状だ。泥水を飲むことで、殆どの人達がA型肝炎に犯されているだろうし、蚊に刺されればマラリアにかかり、他にも病気の多い地域であるため、幼くして命を落とす子供達も多い。ヘラヘラ笑って生きていけるほど、彼らの生活は楽ではないのだろうと、勝手に想像を巡らせる。
次にこの地を踏む時には、より多くの笑顔に会いたいと願った。